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中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい

脳脊髄液減少症を再発し、闘病中。寝たきりだけど、言いたい!

明るいきざし、ブラッドパッチ後に。


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 寝たきりになって、自分はこの世の中に必要のない存在だと思うこともあった。自宅のベッドから動けず、このまま家から出られないんだろうと思っていた。

 しかし、今は最寄り駅まで自力で歩き、少しの間なら電車に乗ることもできるようになった。

 自分は考えていた。現実は、想像を越えることはできないと。今でもその通りだと思う。喜びも、苦しさも、想像しているより、その時に現実に向き合ったときの方が、何倍も心に響く。

 4月に桜が見られたのはとても嬉しかった。嬉しかったとしか言えないのだが、嬉しかった。細かく言うなら、うつうつとした気持ちで昨年から家のベッドで過ごし、どんよりとした空気が自分から発されているように感じる日々が、自分の首をしめていた。

 その日々が、窓を開け、空気を入れ換えると酸欠状態が終わるように少しずつ変わってきたように思う。

 2回目のブラッドパッチの効果と、仕事を辞めたことの精神的余裕と、友達の存在と、それに春が来たことでの暖かさが加わった。

 もう、何のために生きているのかと自分を卑下するのはやめよう。というか、結局のところ、それは誰にも分からない問題で、考えて、自己嫌悪になるのは、あまり意味がないということが分かってきたからだ。もちろん、今までもわかってはいたのだが、実感してきた、という意味で。

 何のために生きているのか?という答えはそれぞれ自ずとどこかで出るのだろう。考えた先の闇の中にあるものではないような気がしている。そのうち分かるか、分からなくても、もう良いのだ。

 私は、もう充分苦しんでいるのだから、これ以上、自分から余計に苦しむ必要はない。この苦しみというのは、誰にでもあるものだけど、比べられるものではないし、その人が苦しい、つらいと思えば、そうなんだと思う。だから、他の誰にも、それを否定できないと思う。

 それで、他の人より苦労したんだから、これから幸せになれるかとか、そういうことも思っていない。他人とは、何においても全然比べられないということが、これも、分かってきたからだ。これはとてもすごい収穫だった。

 幸せや、不幸の量は比べられない。幸せや不幸は量にできないからだ。同じ単位でなければ、比べることはできない。

 逆に、誰とも比べられないというのは、絶対的なところで他人とは、分かりあえないということでもあると思う。とても孤独だが、それが当たり前なら仕方ない。究極的な部分を分かりあえないことを余計に寂しがるより、分かり合えたことを認めるべきだ。

 そうやって、毎日に明るいきざしが見えてきた。

 

毎日気を使って疲れてしまう人へ

謙虚さと贈り物

 以前、100分de名著で見た『野生の思考』から学んだことで、贈り物について書きました。ここから開けたことがあるので、ひもといていきます。

野生の思考とクリスマスプレゼント

気になったのは、

○人は冬に贈り物をしたいという本能をもっていること

しかも、それぞれが、

○贈り物をする習慣を自分の文化に持つことです。

 そこで、日本についても考えてみましたが、日本でも1年間お世話になった人にお礼の気持ちを込めてお歳暮を贈る習慣があります。

◇冬は贈り物をしたいという本能

 それに、番組で言っていたのは、

◇人間には贈り物をすることで、相手に貸しを作りたいという本能

 があるということでした。

 贈り物をすることで、相手に貸しを作りたいという本能があるというところが面白いと思いました。たしかに、きちんとお礼の気持ちも込めて贈る、その気持ちに嘘はないでしょう。でも、それだけではないというところが、説得力があります。

 何かもらったら、お返しをしたいと思う、しかも、良いお返しをして、優位に立ちたいと思う気持ちが備わっているらしいのです。

  簡単に言うと、贈り物をするというのは、相手に貸しを作って優位に立つという要素があるということでした。クリスマスの起源は、悪魔が悪さをしないよう、もてなし、贈り物をするということでした。ここから、人間の本能には、贈り物は貸しを作るという心理があるということだったと思います。

 自分の行動について変だと思うことがありました。私とても面倒くさい人間なのですが、それは、LINEのやりとりで自分が最後にならないとなんだかもやもやするとか、プレゼントはあげる方がもらうより心持ち楽だとか、常に相手に嫌な思いをさせないだろうかとか些細なことが気になっているとか、そういうことに現れています。

 例えば、電車で会った、その場でしか会わない人にさえ色々考えてしまうのです。間違ってぶつかったりして、相手が嫌な顔をしていないかすごく気になります。その人が家に帰って、「今朝、どんくさい女の人にぶつかられてさ。」と話題にされることを心配します。それは無駄な神経の使い方だと思いますが、そういう細かいことがどうしても気になります。

 細かいことが気になるので、プレゼント選びはものすごく考えて、時間をかけます。でも、選び終わったところでほぼ、私の中で「プレゼントイベント」は終わっているのです。渡した時に相手がどう反応するかはあまり気にしないのです。渡したらその場ではみんな喜んでくれるので、その後使ってくれるかどうかはその人が帰ってから決めることだと思っているからです。私にとっては、とにかく、「選んで、渡す。」ということに重きを置かれてることに気がつきました。

 自分のことなのですが、この重きの置き方は変だと思っていました。プレゼントとは、相手を喜ばせるためのものです。それなのに、相手の感情よりも自分の行動に重きを置くのは変だと思っていました。しかし、「プレゼントを送る=貸しを作る」という式を使えば、見えてくることがあります。

 乱暴な言い方をすると、他人に優位に立たれたくない気持ちが強いのだと思います。いつも謙虚にしていようという気持ちは純粋な部分も確かにある。でもその中には、「謙虚でいれば、誰にも不快に思われないから、自分にとって得だ。」という要素がある。これって、謙虚というより、あざといと思うのですが、仕方ありません。確実にその要素があります。

 得だという点に沿って考えていくと、細かい部分が気になることも何となく理由が見えてきました。相手に不快に思われないように、謙虚に見えるように、ちゃんとしている人に思われるように、LINEにしろ、日常の行動にしろ、プレゼントにしろ、全部貸しを作って優位に立ちたい、「正当」な方法で「得」をしていたい。そういう心理があるように思いました。ああそうか、自分はあざとい人間なのか。そう気づくと少し楽になりました。それなら、変に神経をすり減らす必要もないのではないか。

 

 せいぜいあざとい人間として、神経をすり減らすことを減らして、謙虚の純度を高めたらどうかと。その方が自分も周りも得ではないかと。

SNSの使い分けは、住み分け。

SNSでもそれに見合った発言をする

Twitterだと人格が変わるやつがムカつく、隣人に見せられない人格をネットで作るな!と、いつかの「僕らの時代」で語っている女の人を見た。そのことについて考えていて、何となく思ったことがあった。

 確かに、ネット上には変に噛み付く人達が、掃いて捨てるほどいて、有名人だけでなく、注目される人は絶賛と炎上のコメントを浴びている。そして心無いコメントを故意にする人もいる。そういう人に対して、その女性タレントは「ムカつく」と言っていたのだと思う。ムカつくのも普通のことだ。

 しかし矛先を自分に向けてみると、どうだろうか。わざわざ有名人や、注目される人に暴言を吐いたりはしないが、友人に堂々と見せられる内容のことを呟いたり、書いたりしていない。

 むしろ、「リアル」な友達に言えないことだからこそ、ネット上で呟いている。

 たとえば、病気になると、健康な人が羨ましくなる。

 でも、そのことは友達にはいえない。なぜなら、そんなことを言ったら、心配してくれている友達を悪い気分にさせてしまうと思うからだ。心配した友人が「あなたが羨ましい。」と言い出したら、怒ったり、ひいたりすると思う。それに、友達には友達の楽しみとつらさがあって、家から出られない(出られなかった)自分には分からない。

 そういう羨ましさや、妬みを含んだ感情を吐き出すためにTwitterを始め、その延長にブログを始めた。同じような人がネット上にはたくさんいるのではないか。というか、リアルな世界では誰も理解してくれなくても、ネット上に居場所がある人はたくさんいると思う。インターネットが普及してから何年経ってると思ってんだ!と言われそうだが、そういう人は、隣人に見せられない人格をネット上で形成しているわけだ。誤解されそうなので、書いておくと、法に触れることや、人を傷つけることを肯定したいのではない。ただ、知っている人のブログやTwitterを見て、知っているものとちがっても、批難できないなということを思ったのだ。

 欝日記や、欝ツイートと呼ばれるもの、そういうものは面倒くさい。でも、面倒くさいのは、自分の現実の生活に入り込んでくるからだ。そのものにあった場所、そういうことを呟いてもいい場所では批難されなくてもいいのではないか。裏アカを作る人にはそれなりに抱えているものがあるような気がする。

 誰にも見せられないなら、紙媒体の日記に書けよと思うこともある。でも、ネット上に書くのは、やはり、顔の知らない人で、同じような境遇の人に見てもらいたい気持ちがどこかにあるように思う。

 それで、Twitter上ではそういう暗い内容は合うように思うけれど、インスタやフェイスブック合わないのは、顔が出ているからではないかと思う。そこでは、HAPPY!な内容を投稿することが適切になる。有名人を筆頭に、真上から撮った食べ物の写真、海外の写真、加工した景色、イケメンの彼氏、など。ドラマに出てくるようなものを投稿するのが「合っている」場所になる。フェイスブックでは、結婚、出産など近況を明るく発表するのが「合っている」ということになる。それぞれに使い分けがされていくわけだ。

 フェイスブックで他人が羨ましい、妬ましいと思った時期もあったが、そのことに気付いてしまえばなんとも思わなくなった。選んで投稿しているだけだ。そりゃ自慢したい気持ちもあるだろうが、そのHAPPY!の事象があったから、投稿しているのだ。いつもいつもそのことが起こるわけではない。みんな普通だ。そう思うと、とても楽になった。

 

 

怒りから

ふざけんなから呟いてしまう。書いてしまう。

 Twitterで、「あなたの文章は、自己分析のナルシシズムで、つまらない。」という感想がご丁寧に、メッセージで送られてきた。さらにご親切、「この前の文章はひと皮むけたようだ。」などというご感想もそえられていた。

 これに反応しなければそれで終了となるのにも関わらず今になっても腸が煮えくり返っている。怒りの原因は、「お前誰なんだよ!!!」ってことだと思う。「何目線!」「私のお兄ちゃんかよ!」「いや、プロデューサー!」「いや、評論家!」なんにせよ、気に食わん。そんなことを思い、書き出しにしてしまった。うむ、これは相手の手のひらの上で踊っているようにも思うのだが、まあ、良い。せいぜい上手く踊ってやろう。社交ダンスの経験はないけれど。運動神経は悪いけれど。Eダンスアカデミーみてるもんね。

 

 それにしても、私は怒りや、妬みや、苦しさ、そんなものからしか呟いていない。

 なぜか。この理由は簡単に見つかった。それらマイナス感情がないと、「何も思わない。」という境地になるからだ。本当に幸せ、ハッピー!ならば、呟く、書くことなど生まれない。頭の中お花畑だ。ふわふわして、ちょうちょまで飛んでいる。

 逆に何か、不満がある時、その時は、どこかの誰かに分かって欲しい!と思っているから呟いてしまうのだ。こんな経験あるでしょう?こんなやつ、ムカつくでしょう?という風に。

 でも、「ねえ、わかってよ!」とは、恥ずかしくて言えない。直接的すぎるからだ。

 (なにこれ、すっげーだせーな!!)

 書いていて気づいたのだが、ブログを書くという行為は何よりも恥ずかしい。世界中の顔の見えない人々に、自分だけが納得する文章を書いて、「誰にも分かってもらえなくてもいい。」などと口では言っていて、心の奥では「わかってよ!わかるでしょ?」と思っている。

 あー恥ずかしい。恥ずかしい。読んでいる方が冷めていくのがよくわかる。

 だって、これは、共感の強要なのだ。

「病人だから、苦しいのわかるでしょ?」

「病人だから、何も言えないから、こんなこと考えてててもいいでしょ?」

「病人だから、誰かを妬んでも、わかるでしょう?」

 

 それじゃ、だめだ。病人だって懸命に生きている人だっているし、その人たちに失礼だ。もちろん、この気持ちは、 少しずつ良くなって、寝たきりから開放されつつあることもあるけれど、本当はもともと持っていなきゃいけなかったんだ。

 精神的に不安定になって、分かったことがある。それは、結局、誰も全く同じ経験をすることはないのだから、同じつらさを感じることはないということ。そしてそれは、「孤独」なんかではなく、人間として普通のことだということ。

 誰にも苦しさを理解されなくても、楽しく生きていく方法はある。どこかの誰かは、きっとそうやって生きている。明るく生きていこうとしている人がいる。自分の内にばかり向かっているとそういうものは見えてこない。

 分人主義を学んだことで、自分を変えるには付き合う人を変えることだと分かった。今の私は「自分の分人」とばかり付き合っている。しかもそこに、腹立つことを言うやつが入って来る。最悪の流れだ。

 家族や友達、ペットや、テレビや本や新聞やラジオ、何でもいいから話してみる。見てみる。聞いてみる。そうやって、狭い世界を少しずつでも開かなくては、内に内にこもっていくことになる。怒りがわいて、くだらない恥ずかしい記事を書くこととなる。ふざけんな!から書いてしまうのは、上手く自分と付き合うための過程であり、手段だ。

 何のためにブログなんか書いてるのか?と言われたら、やっぱり、しのごの言うためなのだ。というか、それ以外にあるか?有益なハウツーブログで儲けている人なんて極一部でしょう?一億総しのごの社会だ。(「一億総つっこみ社会」って上手いよなあ。)しのごのしのごの言って、自分の怒りを発散している。ほら、書いているうちに浄化されてきたよ。ほら、自己分析のナルシシズムでも悪くない。

 

今の状況と分人主義と

分人主義という考え方を知った

 平野啓一郎の分人主義の本を読んだ。かなり簡単勝乱暴にまとめると、「人には表裏があるのではなく、そのコミュニケーションする相手によって、分人が形成される。全てを統合したものが自分だ。」という内容だった。

 なるほど、この考え方で、自分自身にあてはめてみた。

つらかった時期

 病が一番つらく、精神的にも「死」を意識したとき、強くあったのは、「心を閉じている」という感覚だった。限られた人格が、自分を統制していて、「病人は苦しい、そのことは誰にも通用しない。」とずっと考えておた。そして、誰にも理解されないなら、死を選んでも、誰にも迷惑にならないということだった。

 今になってみれば、これは、自分だけの分人で生きるというのは、とても苦しいというのを実感した体験だった。自分の人格が限られていくのは苦しい。思いや考えが内に、内に、閉じていく感覚は苦しい。

 家族と話していても、必要最低限のことしか言わない。友達には連絡しない。そうすると自分の分人の比率がどんどん高くなる。周囲と接しようとしなければ、他の分人が育たないので、余計に自分の分人が大きくなる。自分の分人は風通しの悪い環境で育っていくので、性格の悪いヤツが育っていく、というような感じだった。

 こんな体験から学んだことは、「人は一人では生きていけない」ということや、「心を他人に開いた方が良い」とか、言葉にすればありきたりになることだった。

 閉じていく生活は「死」を意識し、恥を捨てて、友達に片っ端から連絡した結果、すぐに終わったからだ。自分の分人の形成より、他人との分人が育つことで、心を開いていく方向に自然に向いた。労力を使うことだったが、自分一人の時の分人よりずっと付き合いやすかった。何より、友達が連絡をくれるのは嬉しかったし、楽しかった。

 

勘違いと、これからと。

 ずっと、自分の中には、豊かな感覚が眠っていると勘違いしていた。(今でもしている。)

 でも、たぶん、私の中には限られた分人しかいない。それは、私の心が貧しいからではなく、人間として普通のことなんだと思う。

 私の中に住む分人には、シニカルなヤツがいる。幸せを茶化したり、失敗を嘲笑ったりするやつがいる。でも、そいつは細かいことに気を配り、神経をすり減らしているヤツでもある。私はこいつとさよならすることができない。どちらかと言えば、さよならしたくない。私の面白いと思うものには、シニカルが含まれているからだ。ただただハッピーには、入り込むすき間がない。

 この、シニカル野郎と上手く付き合っていくのが良い。自分や他人を必要以上に傷つけたりしないように。上手く出したり、引いたりするんだ。

 それでいうと、他人といる時の分人は、自分でスイッチングできるものではないという。もし、「分人化」が上手くいかなければ、(個人的分人が出来るほど親しくならないこと)それは、自分のせいだが、半分は相手のせいだという。確かにそうだ。そうだ!

 何かを思う自分と、それを思わせる相手によって、分人が出来る。

 上手くいかない時だけではない。上手く分人化が出来たのも、相手のおかげだが、半分は自分の手柄だ。良い分人が形成できた自分を誉めてあげよう。

 

改めて、病人と分人

 病人だから、つらい時もある。苦しい、苦しいと思う分人、楽しい人生を送る誰かを皮肉る分人が出てくる。

 でも、病人にも楽しい時はある。テレビでお笑いを見てる時、ラジオで巧みなトークを聞いている時。友達が訪ねて来てくれた時。自分の症状が少しずつ良くなっていることを感じた時。

 そのような時々に、「浮かれるな。また結局、自分の思い通りにはならないことが起きる。」とシニカル野郎が来て、釘を刺すようなことを言っていた。(言っている。)

 でも、私の中に住む分人は、シニカル野郎だけではない。きちんと物事を考えられるやつ、明るい気分にさせるやつ、素直に喜べるやつ、みんな住んでいる。

 シニカル野郎は、そういうやつの分人権を奪おうとしていた。

 それは、ポジティブになることでも、ネガティブになることでもない。普通に過ごすことだ。そうやって、自分の色んな分人と付き合っていこう。自分の全てを否定する必要はどこにもない。なぜなら、自分の一部は誰かが作ってくれたものだからだ。そう考えると、楽になってきた。

 

前進すべし2

少しずつ動けるようになってきた

 寝たきりの生活から、少しずつ動けるようになってきた。

 座っている時間20分が限界→午前中は座っていられる。

 外に出る時間0分→10分→15分→30分→40分とのびてきた。(外を歩けるようになってきた)

 目眩なし、頭痛はたまに、だるさはまあまあある、、、

目眩がしないってすばらしい!

 BP(ブラッドパッチ)って色々言われるけれど、私には効果があったわけです。

 症状が減るだけでぜんぜん精神状態がちがいます。病は気からって言いますけれど、その逆もあるんだなと思います。

 それで、今は、何をやっているかというと、働けるほど回復するまで、体を鍛えなくてはいけませんので、できるだけ歩いたり、起きている時間を伸ばしたり、リハビリみたいなものをしています。

 医者いわく、少しずつ無理することが必要なんだそうです。それは個人によって方法がちがうから、自分で試行錯誤しなさいとのこと。(あ~むずかしいね~でも、そうですかとしか言えなかったよ)

 まあ、手始めに歩くのが簡単に始められるし良いかなと。お金もかからないし。

 少し歩いたら、死にそうになるけど、毎日少しずつ距離が伸びていくのが嬉しい!

 がんばりすぎないように、頑張って、普通の生活を取り戻すぞ!!

 

 

 

前進すべし

批判して生きるのでなく

 自分は空っぽだと思い、こんなものを書きました。

 でも黙ってるなんてつまんない!と思い、ネットで探した公募にいくつか提出し始めました。これから、続くかどうか分からないけれど。採用されたら万々歳!

 採用されなくても、仕方ない。また次に出せば良い。

 公募を探してて思ったけど、「表現者」ってやつは、本当は自分の言いたいこと言えてんのかなってこと。

 求められるのは、誰かの求めてるものでしかなく。それは、企業の広告であることが多い。

 自分の言いたいこと書いて、歌って、描いて、踊って、、、そんな人はほんの、ほんの一握りだ。知ってるつもりだったけど、改めて。

 簡単に言えば、バランスってことなんだろうな。言いたいことと、求められてることと。でも、その言い方は好きじゃない。そして、私は、まだ何もない。

 少し、前進すれば良い。

 ブログだけでぐずぐずしていないで。

 Twitterで文句言ってないで。

 言いたいことがあれば、出せば良い。