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中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい

脳脊髄液減少症を再発し、闘病中。寝たきりだけど、言いたい!

批判ばかりしている空っぽな人々

批判ばかりしている人々とは

 これは自分について思ったことだ。

 気づいてしまった。

 Twitterやらブログやらで、何か書いていることや、深く分析したいものは、常に誰かが作ったものだ。自分が生み出したものではない。誰かが作ったものに、良いとか、悪いとか言って、ネット上を無駄に使っている。

 そして、主にそれは悪いと思ったことが始まりになって書いている。こいつはつまらない、面白くない、すべってる。そういう感情でネットを開いてしまう。

 だいたい、私には嫌いなものが多すぎる。そして、そういう嫌いなものを面白おかしく話してくれる人が好きだ。悪口を笑いに昇華してくれる人々が好きだ。

 でも、私が思ったことや、呟いてしまうことはただの悪口だ。私は分析することは好きだが、何かを生み出すことはできていない。

 能力がなくったって、悪口は誰にでも言える。隣に行って、いや、隠れて「つまらない」と一言言えば、それで良いからだ。

 私はそういうことをしている。

 能力もないくせに噛みついている人たちと同じだ。ネットっていうのは、そういう場だから、誰が何を書くかは自由だ。

 でも、そんなの低俗すぎる。大きなメディアに出られない人も、自分の表現ができるように開かれた世界なのに、自ら悪口を垂れ流す場所にしなくても良いではないか。

 トイレのイタズラ書きを「表現」と呼ぶならそれで構わないが。

 何か垂れ流すならもっと、ましなものを垂れ流したい。でも、他人を批判して、自分に戻ると、自分には何もないような気がする。

 気づかなきゃ良かった。「つまらない」と思った人の文や、動画さえ、自分ではできないことをしていることに。

 顔を出して、甘んじて批判を受け入れている人々は、自分とはちがう。自分には何もない。個人を特定できるようにして、覚悟を持って、発信したいことなんて。そういう人は黙ってることが一番良いのだろうか?

 でも、黙ってるなんてできないのだ。だから、もう少しましなものを、もう少しましなものを。そう思って書いていこう。

あきらめたらどうか。

ターボエンジン×努力

 人間はもともと平等ではないと思う。こういうと、反発されそうだ。だけど、かわいい、または美人が何かするのと、そうでない人が何かするのでは差がある。

 授業中、体が細くて、目が大きくて、髪の毛サラサラ、笑顔がかわいい女の子が先生に指されて「わかりません。」というのと、体型普通、顔中の下、無口の女の子が「わかりません。」と言うのでは、周囲の感じ方はたぶんちがう。

 かわいい女の子の場合、その、「わかりません。」がより愛らしく感じる。よし、よし、教えてあげようとか、あの子と一緒にテスト勉強したいなと思ったりする。

 でも、そうでない子だと、「うわあ、自分に順番くるじゃん、何で答えないんだよ。」と次の人が思うくらいで、後は何も思わない。いや、意地の悪いやつが、「無口なのに、勉強できないんだな。一人で何やってんのかな。」と思うかもしれない。

 かわいいって何だろう。

 でも、そんなことより、努力して勝てる何かを身につけた方がずっと良い。話の通じない同級生とは早く離れて、楽しく生活したい。そんなことをずっと考えてながら中学生をやっていた。

 もともと頭は悪くなかった。でも、クラスで一番になるほどではなかった。一番になる人は効率的に生きているか、他人を見下すような性格が悪い人かどちらかだと思っていた。不器用な自分は、その人たちに勝てっこない。それは、すぐに諦めがついた。

 それでも、絶対負けちゃいけないラインというものが存在していた。でも、それが、特定の誰かというわけでもなかった。何かに必死に負けないようにがむしゃらだった。

 私は、その時に形成されてしまった性格が治らない。

 人間は平等ではない。もともと高い能力を持っている人がいる。それは、理解力や身体能力、記憶力、容姿でも、何でも良いのだけど、とにかく高い能力をもっている人たちがいる。

 そういう人たちはジェット機と同じエンジンを積んでいる。自分のやりたいことをその世界で発揮している。努力もしているが、それはジェット機を操縦するために必要なことだからだ。誰よりも遠くにいける。

 私はこの人たちを、ただただすごいと思う。全く違う土俵にいる人たちだ。たぶん、彼らから受ける恩恵で生きている。

 その次の人たちは、並々ならぬ努力して、地上を走っている。レースカーや高級車のエンジンを積んでいる。ここには、自分のエンジンがどれほどの能力を持っているか分かっているにも関わらず、後ろの方をゆっくりと走ろうとする人もいる。

 逆に、能力を分かっていても、最大限にアクセルを踏んで、飛ぼうとする人もいる。そして飛べないことに落胆している。

 この中で一番嫌なのは、良いエンジンを積んでいるくせに、アクセルをあまり踏もうとせず、普通車と同じスピードで走ろうとする人だ。

 楽して隣を走っている。その呑気な横顔も腹が立つ。こっちは必死こいて、このスピードで走っているのに。

 私は、その下の普通車で、でも自分が原付よりずっと良いエンジンを積んでいるという自負がある。普通車の中では、トップで走っていたい気持ちがずっとある。でも、エンジンは、どうにも根をあげている。自分の能力を過信しているのだろうか。

 顔を真っ赤にして走り続けることには限界がある。私は飛べないことに気づかない高級車と同じ、いやそれよりもずっとダサいものなのだろうか。もしかしたら、私は普通車でもなく、原付ですらなく、自転車で、必死にペダルをこいで、周りに引かれてるだけではないか。

 そんなことをずっと考えている。

 とにかく、自分は足を動かすことをやめられない。何かに負けないように。それは、自分に負けたくないなんて、かっこいいものではない。もっとどろどろとした、嫌なものだ。

死にたかったあの時

本当につらいことを忘れないように

 かにゃーです。どうでも良い記事ばかり書いていますが、忘れないうちに、一番つらかったときのことを今のうちに書いておこうと思いました。

 それは、去年、6月のブラッドパッチの後、半年の休職を経て、秋に復帰した時でした。職場では、自分が何も出来ないことで、自分が無価値な人間に思え、よく涙が出ました。

 治った時に、たくさん働いて、恩返ししたら良いよといってくださる人々への申し訳なさが拭えず、身体の面では、ずっとつきまとう倦怠感が日に日にひどくなっていき、症状がまた増えていくことへの恐怖感もありました。

 その時の自分のTwitterにはたくさん「つらい」と残しています。

日常がつらい。ただ職場に行って帰るだけなのに、それがつらい。これを終わりにしたいから死という考え方がずっとついて回っている。もちろんよく分かっている。ものすごく恵まれている環境であることを。死んだら色々問題になることも。でも、いつこの「体調不良」から開放されるんだろうか。

 https://twitter.com/kanya_nouseki/status/796297997097136128

  職場では、上司が私の身体を心配して仕事を減らしてくれました。それでも、治るような気がしません。ブラッドパッチは効果があったはずなのに、倦怠感が続きます。

 本当は働いて、貢献したいのに、何もできない。

 毎日毎日、「明日は行けるだろうか?」と恐怖にも似た気持ちを抱えながらじりじりとやっていくことが、精神的にも自分を追い込んでいきました。その時の倦怠感を表したのが、このツイートでした。

 【倦怠感】身体の中にある血液や骨や組織なんかがどろどろになって皮膚という袋に入っていて、形を作っている。それを真ん中にある心がなんとか動かして、生きている。ほんの少しで袋が破けて身体がばらばらになってしまうんじゃないか。そんな混沌を抱えている。自分を泥人形のように感じる。 

https://twitter.com/kanya_nouseki/status/797023244196773888

  歩いていても身体がついてこない、何とか心だけで踏ん張って、身体を引きずって、出勤途中に歩けなくなって、休んで、涙が出て。それでも、私は働きたいと思っていました。だから、無理してでも、とにかく通わなきゃって、思っていました。そうしないと、自分が無価値な人間であると思ったのです。そして、気づかってくれる周囲の人々への申し訳なさがどんどん増していきました。

 でも、私は結局、数週間しか動くことができず、また寝たきりに戻ります。今考えれば、まだ働ける体ではなかったのだと思います。それなのに、自分で自分を追い込んでいました。

 寝たきりに戻ると、あまりに不甲斐ない現状に絶望し、「死」という解決策を頻繁に考えていました。

こんなこと言うもんじゃないって分かってる。生きたくても生きられない人もいるって分かってるけど、生きてるだけでストレスだ。起きると世界がぐらぐらと揺れていて、気持ち悪い。もう、どうしろっていうんだろう。

https://twitter.com/kanya_nouseki/status/799446835370729472

 当時、「死」という解決策はとても簡単に思えました。本当に馬鹿な考えなんですが。

 リセットしたいという気持ちに取りつかれました。

 この倦怠感、目眩、頭痛、様々な症状から、社会的に無価値な自分から、将来への不安から。

 逃げたい、終わりにしたい、家族や友達や、恋人や、職場の人には申し訳ないけれど、そんなこと知ったこっちゃない。

 今の苦しみに比べれば。私一人いなくなっても、この世界自体は何も変わらない。毎日毎日、考えました。世界の歯車にもなれない私は、消えてなくなっても、何も変わらない。私を知っている人が悲しんでも、悲しみを共有して、そのうち忘れてくれれば良い。

 私を失った後の世界なんて。

 そんなこと、知ったこっちゃない。

 私は、私は、私は。

 

 そういう風に、何も分かっていないのに、死についてばかり考えていました。自分のことばかり考えていました。

 でも、これは異常だと思いました。今まできちんと生きてきた自負はあったのです。恵まれているのに自ら死を選ぶのはおかしい。

 しかも、苦しめているのは自分自身でした。

 当時、つらいと言えた相手は、恋人だけでした。恋人には申し訳ないことをしたと思っています。一人だけに話すのは解決することを求めているようで、その人を暗い方へ引っ張っているだけでした。もちろん、話さないでいるよりずっと良いけれど。

 なぜ、友達につらいことを話せないのか。それは、変な自分のプライドでした。復帰したことを報告していたので、また具合悪くなったって言えない、勝手にそう思っていました。

 

 でも、死ぬつもりなら、変なプライドとかどうでも良いわって、どうせ死ぬつもりなら、友達に片っ端から連絡してからでも良いわ。最後に迷惑かけても良いだろ。恥ずかしさも死んだらなくなるじゃない。そんな変な開き直りで、友達に連絡しました。

 それが、私を救ってくれました。

 LINEや電話で、そして家に来てくれて、変に気を使わず、みんな楽しく喋って、笑って、帰っていきました。それが、本当に救ってくれました。

 今もまだ家から出られませんが、生まれ変わった気持ちで、あの時ほどつらくはありません。今の目標は、友達と遊びに行けるほど回復することです。社会復帰はその後の目標です。少しずつ、叶えていきたいと思います。

 

性根が曲がっている気がする

Facebookで見てしまった幸せをやり過ごす方法3つ

 

目次

1. あれ、知らない人にもおめでとうと思うべき?

2-1.不良モード

2-2.優等生モード

2-3.無反応モード

3. まとめ

 

1.あれ、知らない人にもおめでとうと思うべきなの?

 年齢なのかしら。結婚、出産のお知らせがFacebookで行われていて、お友だちには素直におめでとう!と思っています。でも私はタイムラインをスクロールして思うのです。

 でも、でも、友達の友達とか、友達の知り合いとか、知り合いの友達とか、知り合いの知り合いとか...嗚呼、もはやここまでくると知らない人でいいですよね!?!?!?!?

 そういう人の、人生のターニングポイント超絶スマイル写真を見て、何を思ったら良いのー?心の清らかな人、教えてー!教えて、おじいさん!!状態。

 そして、たぶん、世の中の人は普通に受け入れ、普通に無視するなり、祝いの言葉を述べるなりしています。こんなことは誰も教えてくれません。現実的に教えてというのも引いちゃうでしょう。

というわけで、私なりのやり過ごす方法、3つのモードを考えてみました。

 

2-1不良モード

 「んだよ、俺にはかんけーねーんだよ!知らねぇーよ!!」(唾吐き、舌打ち)

 考えた1つ目の方法は不良モードになること。

 知らない人の幸せとか知らねぇし!こんなところで発表すんなし!発表しても良いけどここであんたの全然知らんヤツがキレてっぞ!そこまで想像したんか?設定をきっちりやったんか?ああん?(全て心のなかで行われています。絶対誰にも言ってはいけません)

 何で不良口調は語尾に「~し!」ってなるのかしらねえ。今時、こんな不良いるのかしら。金髪、ピアスで制服を着崩して、ローファー踏んででガムかんで、たばこ吸うし、バイク乗り回す、校舎の窓硝子壊して回る上等、上等、世の中上等...言えない...言えないわっ。私結構、優等生だから!!

というわけで、優等生モードも考えます。

 

2-2優等生モード

 「○○さんおめでとうございます!!!私も早く幸せになりたいなぁ~♪」

 2つめのモードは、素直で可愛い女の子になること。ここでいう「優等生」とは、SNS上でも現実でも周囲にほんわかする雰囲気をお届けする子。もう少し拡げてみる。

 きゃー!おめでとうございます(はーと)花嫁さん可愛い!旦那さんイケメン!赤ちゃん可愛い!チャペルステキ!親戚のおじさんかわいい!なんでも可愛いーー!!みんなの幸せは私の幸せ(*^^*)

 何か、最後の一言が新興宗教の教祖さまやな。ちょっと怖い。白くてうすーい服着てそうだな。頭に花輪のせてるな。頭お花畑かよ。古代ギリシャじゃないんだぞ。21世紀の日本だぞ。

 

...ぜんっぜん違うし。優等生どこいったし。本当は可愛いくて素直な女の子のイメージだったんだけどな。うすーい服着た古代ギリシャの方にはお帰りいただこう。何にせよ、出来る人は自然にやっているのだ。無理して人を誉めようとすると逆に嫌みになるので、馴れない人は安易に挑むべきではない。

 

2-3無視するモード

「...(無視してタイムラインスクロール何も思わない。)」

 嗚呼、羨ましい!この境地!インターネットをやる上で無視できるというのは必要な力だって何かで読んだぞ。たぶん、多くの人はこの作法を手にいれている。

 

 私には関係ないから。

 

とフラットに思っている。きっと、無機質な要素を少しお持ちなんだわ。誰かを傷つける訳でも、卑屈になるわけでもない。ヘッドフォンとかして、グレーのパーカー着て、私以外私じゃないのーと鼻歌歌えるんだわ。だから普通にSNSが使えるのだわ。

 

3.まとめ

 長々と考えましたが、ベストなのは無視するモードだと思います。というか、それが普通なのではないでしょうか。

 まあ、これは自分の目指すベストなので、心優しい人は優等生モードを自然に選択し、そして周囲に、ほんわかした雰囲気をお届けしてほしいです。私もほんわかを享受したいです。 

「何も思わないという境地」それを目指したいと願ってはいますが、まだまだ遠い道のりのようです。

キングコング西野さんのブログを読んで。何を言うかでなくて、誰が言うか

肩書きって大事なんじゃないかと思ってるのだけど

 かにゃーです。やっとLINEブログを読み始めまして、話題になっているので、西野さんのブログを読んでみました。

 はねとび見てたし、イケメン芸人だと思っていたのだけど、ここ数年はよく炎上している人になっている...確かに、「ドキドキしてる?」は、「え?」って。

 アメトークではそれがネタなんだろうな、周りの芸人がそれを取り上げて、面白く話してるんだろうな、西野さん自身もネタとして、キャラとして、やってるんだろうな。なるほど。なるほど。ここは私もテレビっ子!面白い人のキャラを解体して、こういうキャラなんだよ、うん、そうだ、と言うのはやめておこうなどと思ったら、ら、ら!

 西野さんって真面目にディズニー倒そうと思ってる?

 マジで「ドキドキしてる?」って言ってる。

 あーすげー。こわい。理解できない。(なんでディズニー倒すんだろう?浦安にテーマパーク作らないなら倒す必要あるのかな?)

 

 もう、インタレスティングな笑いは良いからファニーな馬鹿馬鹿しい笑いが欲しいなあ。それで、この記事。

 

まだ肩書きで消耗してるの? : キングコング 西野 http://lineblog.me/nishino/archives/9253233.html

 

 これ読むと、肩書きにこだわってるのおかしい、誰が作るかじゃなくて、何を作るかだ!っていうことが書いてある。(解釈が違ったら悪いので、読んで下さい。)

 でもなあ、私は芸人の西野さんだから「絵本すげー!」ってなるのだと思うけどなあ。今は、アメの何とかっていう肩書きになったらしいけど、はねとび覚えてるからさ。芸人なのに絵本?え、すごーい!ってさあ。

 これが無名の絵本作家が描いてたら、ここまで話題にはならないよなあ。まあ、きちんとしたものを作ってるからここまで売れてるのと、無名の絵本作家が全く同じものを出すことはないので、比べられないのだけど。

 それから、そういう「芸人なのに」っていう世間の反応も含め、計算なら、すみません。

 少し話は変わるが、関ジャムの何週間か前の回で、プロデューサーたちが2016年のベスト10を発表していて、とても面白かった。そのなかで、オリラジのパーフェクトヒューマンをランキングに入れている人が言っていた、「もう、オリラジはテレビで何者か自己紹介が終わっているから、これがヒットした」というのに、なるほどと思った。

 武勇伝から、インテリ、チャラ男、ラッスンゴレライ(!)...など、漫才でもコントでもないところでブームが来てたオリラジだから、パーフェクトヒューマンが面白いわけで。伝わるわけで。

 あれを見るたびに、笑いが押さえられないのと、オリラジ頭良いなあ!と言ってしまう。

 意図せずオリラジを持ち上げる記事になっている。ちがうちがう。

 私は、オリラジが好きで、西野さんが嫌いって言いたいんじゃない。

 

誰が作るか、誰が言うか

が、大事なんじゃないかと思ってるんだ。プロデューサーさんが言った、「自己紹介が終わっている」ってこと。

 本当にすばらしい物を作る天才なら、時代関係なく出てきてるでしょうよ。ちょっとそういう人は話から置いておく。

 そうでなくて、何か主張、自己表現したい人は同じようなこと言ってても、有名人の発言は注目されるし、良い!と言う人も多い。

 【○○さんの神対応に絶賛!】とかそういうの。読んでも普通の対応じゃん、と思うことがたくさん。でも、それは、人気者だから「神対応」であり、「優しさ」になるわけで。逆に、少しでもネガティブなものを出すと「横暴」、「天狗発言」になるわけで。

 それで、西野さんに話を戻すと、あの人が肩書きをもう変えたから!と宣言しても、周りは、そうは見てないですよって。

 あなただから注目されていますし、炎上しているのです。まあ、それも理解した上で苦労されているのでしょうね...。

 

 そして、偉そうに語っているお前は何者だ!と自分でも思うわけですが、何者でもないっす。ただの病人です。

 有名でなくても、肩書きで見てることばかりで、肩書きから、役割や職業、学歴まで足を伸ばすと、だいたい固定観念で生きてるなと思います。それで、結局逃れられない固定観念なら、それを利用した方が上手く生きられるのではないかということ。

 利用するには、自分がどういう「肩書き」がつけられるか、分かる必要があるんですが。

 あー、また、しのごの言ってる!

 

米津玄師にショックを受けた

 突然ですが、米津玄師さんと年が変わらないということを、Wikipediaで知り、ショックを受けております。才能ってすごいですね、神様。中学生の時から良い曲つくる自信があったっていう...。未だに「何者」でもない私は!

 口ずさみたくなるメロディーに誰も真似できないダンスを添えて、MVを発表して、自己表現する才能。イラストも描けるし、曲もかける。歌も歌える。

 あまり変わらない時間、生命活動をしているはずなのに、違いすぎる。

 いや、分かってる。才能だけじゃなくて、努力を重ねてるなんて、誰かに言われなくても。

 才能ある人なんて、最初からスタートがちがってることも。

 それはそれで、苦労が多いだろうことも。

 でも、言いたい。なんだかつかめないけど、すごいっていうダンスを踊りながら、披露しながら、孤高に見えるような人と、彼の歌が耳に残りながら、少し口ずさみながら、毎日ベッドの上の天井を見つめている自分は、あまりに違いすぎる。

 比べられない。原石と、石ころじゃあ。いや、私は石ころでさえない気がしている。目に見えない何か、石ころに生える、こけの胞子くらいのもので。

 今日も石ころに乗っかって、ただただそこにいるもので。ちょっと離れて見れば、同じようなものがたくさん並んでいて。それは価値のないものか、ただの歯車で。今は歯車にさえなれていなくて。

 そんな私の世界にも、きらきら、ぎらぎらした人たちが目にはいってくる。

 私は、もはや、自分が何をしていいのか分からない。

 大学を卒業したときと、高校を卒業したときと、ずっと変わらない。何をしたいのか、また分からなくなっている。

 とにかくやってみることにも、疑問が生まれている。本当に、何者にもなれない。

 なんだろうか。「まだ、若いのかな。」と思ってしまった自分が恥ずかしい。何から始めようか。Twitterもブログも匿名で、知り合いにばれたくないくせに、変な自己顕示欲を捨てられずにやっている私は。誰かのコピペで喋っているような気がする私は?

「君の名は」知らない人と入れ替わって恋愛に発展するか疑問?

 かにゃーです。今回は、放置していた「君の名は」の疑問、【2.そもそも全く知らない人と、心が入れ替わっても好きになるのに疑問があるから。】について書きます。やっとこさ、です。

最初の記事ときっかけはこちら

「君の名は」が遠距離恋愛ではない?という疑問について考えた。 - 中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい

 全く知らない人と心が入れ替わって恋愛に発展するか?

 確かに、誰でも良いから、入れ替わったら好きになるんでしょうか?どこか遠い、出会うことのない人と。

 共通点は年齢だけ。名前も知らない、顔も見たことなかった人と?

 ただ、東京のイケメン男子だからだという理由で。

 ただ、田舎の素直な女子、巫女という萌えポイントを含めても

 好きになるんでしょうか??

 

 以上のような疑問について考えていきたいと思います。

 さて、早速ですが、好きになるポイントを3つにまとめました。この3つのポイントに沿って考えていきます。

 ポイント1、現在の不満の解消

 ポイント2、周囲の評価

 ポイント3、一生懸命な性格。

 それではひとつひとつ見ていきます。

 

ポイント1、現在の不満の解消

 入れ替わりの時点では、年齢が同じ二人は、現実世界で、小さな不満を抱えて生きています。それは、自分以外にはあまり理解されない不満でもあります。

 三葉は、お父さんが町長、自分は町の神社の巫女という田舎の狭いコミュニティーで、目立つ存在で、それが嫌になるときがあります。

 その暮らしや場所が嫌いではないけれど、どこか不満があって、でもそれを一気に変えたいわけでない、居心地の良さも捨てたくない、というような複雑なものを持っているのだと思います。

 田舎は嫌い、お父さんも嫌い、悪口を同級生も嫌い、だけど、ここを捨てることはできないし、憎めない、好きなものもたくさんある、というような。

 そこで、瀧と入れ替わりが起きます。

 瀧は、三葉の現状に素直に、真っ直ぐに「嫌なら気にしなきゃいい。」「思ったことは言えばいい。」というようなスタンスで臨んでいきます。

 美術の時間、陰口言われたら机倒すし、自転車もがんがんこいで、バスケも誰の目も気にせずやっちゃう。ついでにカフェスペースも作っちゃう。

 気持ち良いことと、そうじゃないことで行動しているように見える。

 それが、三葉にとっては、現実が好転しているように思えるし、じゅくじゅくしていたものが、すっきりする。

 きっかけは何でも良い。「あ、何か、少し良くなった...。」と思ったら相手が気になるきっかけになるのではないかと思います。

 瀧の方は、奥寺先輩へのあこがれがあります。でも、デートに誘うほどは踏み込めないし、まあ、現状のままでも良いのかもという気持ち。

 そこで、入れ替わりが起きる。

 三葉は女の子だから、瀧とはちがうあこがれで、奥寺先輩と仲良くなる。会ったその日にお礼として、スカートにかわいい刺繍をしてあげる。バイト帰りは一緒にカフェに行ってお茶をする。

 瀧はバイトの先輩たちに、それでうらまれるわけだが、奥寺先輩は親しげに話してくれる。

 「瀧くん昨日はねー...」と話してくれる奥寺先輩が三葉のことを教えてくれる。刺繍をした三葉のことを考え始め、いつの間にか、奥寺先輩とも前より仲良くなっている。

 

 ポイント1に関しては三葉の方が要素が強いかもしれませんが、相手のことを考えるきっかけとしては、瀧も同じだと思います。

それでは、つぎに、

 ポイント2、周囲の評価

について移ります。

 昨日は変だったという話や、机を倒した、カフェスペースを作った、など、自分が入れ替わってる間、相手が何をしていたのか、周囲の反応から読み取れることがあります。

 それで、「へえ、いいひとだな。」とか、「そんなことできるんだ。」とか、「優しいとこあるな。」とか思い始めるわけです。

 それで、自分は入れ替わって、その人になるわけですから、鏡をじっと見て、「君は良い人だね。」なんて思ったりして、それで恥ずかしくなったりして。

 少し気になっていた存在がどんどん気になって、「好き」と呼べるものなんだけど、認めたくなくて...のように普通の恋愛のように発展していくのだと思います。

 それから、物語では、二人とも、友達がとても優しい。自分の良さっていうのは自分には分からなくて、周囲の人から見たもののほうがよく分かるってこと、あるじゃないですか。

 入れ替わった先で友達を見て、とても良いヤツ!って思うと、この人も良いヤツなのかもしれないと思って。

 そして友達が話してくれる普段の「この人」が良い人に思う。そんな風に発展するのかなと思います。

 

 誰だよこれ?と思っていたその人が気になって、「良い人」だと思う...。少しずつ好きになっていくような気がしてきました。それでは、

ポイント3、一生懸命な性格

に移ります。

 三葉も瀧も一生懸命です。

 言わずもがな。

 でも、夢で、全く知らない人になったとして、きちんとその生活を守ろうとするでしょうか。好きに適当にやり過ごすことも、普段の自分には絶対できないことだから、とその人の生活をぶち壊すこともできるはずなのです。

 学校に行かなくても、友達と話さなくても、家族に変に思われても、バイトをしなくても。自分は何も困らないはずなのです。

 もちろん、仕返しにあう可能性はありますが、彼らはきちんとルールを作り、それを守って、むしろ楽しく過ごそうと努力しています。なかなかできることではありません。そして、お互いに一生懸命やるからこそ、「きちんとやってくれた。だから、私も頑張ろう」と思えるはずなのです。

 そして、入れ替わりのない日にはホッとしつつも、入れ替わっていた先のことや、その人のことを考えてしまいます。また、会えるかなと。もう東京も糸守も知らない場所じゃなくて、友達も知らない人ではない、いつの間にか、また会いたいなと思っている。

 時間が経つにつれて記憶が薄れても、どこかに刷り込まれたその人を考える時は存在していて、なぜか涙が出る。

 そういうことではないかと思います。

 3つに沿って行きましたけれど、相手をよく知っていくということなのだと思います。前回、「入れ替わりは重なり恋愛」と申しましたが、入れ替わりって究極的に相手を知ることなんだと思います。それでも、入れ替われば誰でも良かったわけではなく、三葉と瀧が素直で真っ直ぐ、一生懸命な人たちだったから好きになったのです。そういう点では普通の恋愛と同じですね。

 

 さてここまで、入れ替わりで互いを好きになるかということについて、考えてきました。普通の恋愛よりも、互いを深く知った二人は、十分好きになるポイントがあったと言えるでしょう。

 しかし、好きなったのは、入れ替わりという方法より、二人の人間性にあったように思います。

 なんというか、入れ替わりを通して、「好きになるべくしてなった」というような気がするのです。

 RADWIMPSのスパークルのサビで、「運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を伸ばそうと届かない場所で僕ら恋をする」とありますが、これは、運命や、未来に消えてしまうということが存在するところではない、むしろそういうことを超え、恋をする、人を好きになるということなんだと思います。

 入れ替わりという運命と、未来をも超える恋だったということでしょう。

 この二人には「入れ替わるほどの運命」と、「入れ替わりを通して過ごす時間」両方が後押しして強く結びつけてくれているのです。結論、好きにならないわけがない!