中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい

脳脊髄液減少症を再発し、闘病中。寝たきりだけど、言いたい!

怒りから

ふざけんなから呟いてしまう。書いてしまう。

 Twitterで、「あなたの文章は、自己分析のナルシシズムで、つまらない。」という感想がご丁寧に、メッセージで送られてきた。さらにご親切、「この前の文章はひと皮むけたようだ。」などというご感想もそえられていた。

 これに反応しなければそれで終了となるのにも関わらず今になっても腸が煮えくり返っている。怒りの原因は、「お前誰なんだよ!!!」ってことだと思う。「何目線!」「私のお兄ちゃんかよ!」「いや、プロデューサー!」「いや、評論家!」なんにせよ、気に食わん。そんなことを思い、書き出しにしてしまった。うむ、これは相手の手のひらの上で踊っているようにも思うのだが、まあ、良い。せいぜい上手く踊ってやろう。社交ダンスの経験はないけれど。運動神経は悪いけれど。Eダンスアカデミーみてるもんね。

 

 それにしても、私は怒りや、妬みや、苦しさ、そんなものからしか呟いていない。

 なぜか。この理由は簡単に見つかった。それらマイナス感情がないと、「何も思わない。」という境地になるからだ。本当に幸せ、ハッピー!ならば、呟く、書くことなど生まれない。頭の中お花畑だ。ふわふわして、ちょうちょまで飛んでいる。

 逆に何か、不満がある時、その時は、どこかの誰かに分かって欲しい!と思っているから呟いてしまうのだ。こんな経験あるでしょう?こんなやつ、ムカつくでしょう?という風に。

 でも、「ねえ、わかってよ!」とは、恥ずかしくて言えない。直接的すぎるからだ。

 (なにこれ、すっげーだせーな!!)

 書いていて気づいたのだが、ブログを書くという行為は何よりも恥ずかしい。世界中の顔の見えない人々に、自分だけが納得する文章を書いて、「誰にも分かってもらえなくてもいい。」などと口では言っていて、心の奥では「わかってよ!わかるでしょ?」と思っている。

 あー恥ずかしい。恥ずかしい。読んでいる方が冷めていくのがよくわかる。

 だって、これは、共感の強要なのだ。

「病人だから、苦しいのわかるでしょ?」

「病人だから、何も言えないから、こんなこと考えてててもいいでしょ?」

「病人だから、誰かを妬んでも、わかるでしょう?」

 

 それじゃ、だめだ。病人だって懸命に生きている人だっているし、その人たちに失礼だ。もちろん、この気持ちは、 少しずつ良くなって、寝たきりから開放されつつあることもあるけれど、本当はもともと持っていなきゃいけなかったんだ。

 精神的に不安定になって、分かったことがある。それは、結局、誰も全く同じ経験をすることはないのだから、同じつらさを感じることはないということ。そしてそれは、「孤独」なんかではなく、人間として普通のことだということ。

 誰にも苦しさを理解されなくても、楽しく生きていく方法はある。どこかの誰かは、きっとそうやって生きている。明るく生きていこうとしている人がいる。自分の内にばかり向かっているとそういうものは見えてこない。

 分人主義を学んだことで、自分を変えるには付き合う人を変えることだと分かった。今の私は「自分の分人」とばかり付き合っている。しかもそこに、腹立つことを言うやつが入って来る。最悪の流れだ。

 家族や友達、ペットや、テレビや本や新聞やラジオ、何でもいいから話してみる。見てみる。聞いてみる。そうやって、狭い世界を少しずつでも開かなくては、内に内にこもっていくことになる。怒りがわいて、くだらない恥ずかしい記事を書くこととなる。ふざけんな!から書いてしまうのは、上手く自分と付き合うための過程であり、手段だ。

 何のためにブログなんか書いてるのか?と言われたら、やっぱり、しのごの言うためなのだ。というか、それ以外にあるか?有益なハウツーブログで儲けている人なんて極一部でしょう?一億総しのごの社会だ。(「一億総つっこみ社会」って上手いよなあ。)しのごのしのごの言って、自分の怒りを発散している。ほら、書いているうちに浄化されてきたよ。ほら、自己分析のナルシシズムでも悪くない。

 

今の状況と分人主義と

分人主義という考え方を知った

 平野啓一郎の分人主義の本を読んだ。かなり簡単勝乱暴にまとめると、「人には表裏があるのではなく、そのコミュニケーションする相手によって、分人が形成される。全てを統合したものが自分だ。」という内容だった。

 なるほど、この考え方で、自分自身にあてはめてみた。

つらかった時期

 病が一番つらく、精神的にも「死」を意識したとき、強くあったのは、「心を閉じている」という感覚だった。限られた人格が、自分を統制していて、「病人は苦しい、そのことは誰にも通用しない。」とずっと考えておた。そして、誰にも理解されないなら、死を選んでも、誰にも迷惑にならないということだった。

 今になってみれば、これは、自分だけの分人で生きるというのは、とても苦しいというのを実感した体験だった。自分の人格が限られていくのは苦しい。思いや考えが内に、内に、閉じていく感覚は苦しい。

 家族と話していても、必要最低限のことしか言わない。友達には連絡しない。そうすると自分の分人の比率がどんどん高くなる。周囲と接しようとしなければ、他の分人が育たないので、余計に自分の分人が大きくなる。自分の分人は風通しの悪い環境で育っていくので、性格の悪いヤツが育っていく、というような感じだった。

 こんな体験から学んだことは、「人は一人では生きていけない」ということや、「心を他人に開いた方が良い」とか、言葉にすればありきたりになることだった。

 閉じていく生活は「死」を意識し、恥を捨てて、友達に片っ端から連絡した結果、すぐに終わったからだ。自分の分人の形成より、他人との分人が育つことで、心を開いていく方向に自然に向いた。労力を使うことだったが、自分一人の時の分人よりずっと付き合いやすかった。何より、友達が連絡をくれるのは嬉しかったし、楽しかった。

 

勘違いと、これからと。

 ずっと、自分の中には、豊かな感覚が眠っていると勘違いしていた。(今でもしている。)

 でも、たぶん、私の中には限られた分人しかいない。それは、私の心が貧しいからではなく、人間として普通のことなんだと思う。

 私の中に住む分人には、シニカルなヤツがいる。幸せを茶化したり、失敗を嘲笑ったりするやつがいる。でも、そいつは細かいことに気を配り、神経をすり減らしているヤツでもある。私はこいつとさよならすることができない。どちらかと言えば、さよならしたくない。私の面白いと思うものには、シニカルが含まれているからだ。ただただハッピーには、入り込むすき間がない。

 この、シニカル野郎と上手く付き合っていくのが良い。自分や他人を必要以上に傷つけたりしないように。上手く出したり、引いたりするんだ。

 それでいうと、他人といる時の分人は、自分でスイッチングできるものではないという。もし、「分人化」が上手くいかなければ、(個人的分人が出来るほど親しくならないこと)それは、自分のせいだが、半分は相手のせいだという。確かにそうだ。そうだ!

 何かを思う自分と、それを思わせる相手によって、分人が出来る。

 上手くいかない時だけではない。上手く分人化が出来たのも、相手のおかげだが、半分は自分の手柄だ。良い分人が形成できた自分を誉めてあげよう。

 

改めて、病人と分人

 病人だから、つらい時もある。苦しい、苦しいと思う分人、楽しい人生を送る誰かを皮肉る分人が出てくる。

 でも、病人にも楽しい時はある。テレビでお笑いを見てる時、ラジオで巧みなトークを聞いている時。友達が訪ねて来てくれた時。自分の症状が少しずつ良くなっていることを感じた時。

 そのような時々に、「浮かれるな。また結局、自分の思い通りにはならないことが起きる。」とシニカル野郎が来て、釘を刺すようなことを言っていた。(言っている。)

 でも、私の中に住む分人は、シニカル野郎だけではない。きちんと物事を考えられるやつ、明るい気分にさせるやつ、素直に喜べるやつ、みんな住んでいる。

 シニカル野郎は、そういうやつの分人権を奪おうとしていた。

 それは、ポジティブになることでも、ネガティブになることでもない。普通に過ごすことだ。そうやって、自分の色んな分人と付き合っていこう。自分の全てを否定する必要はどこにもない。なぜなら、自分の一部は誰かが作ってくれたものだからだ。そう考えると、楽になってきた。

 

前進すべし2

少しずつ動けるようになってきた

 寝たきりの生活から、少しずつ動けるようになってきた。

 座っている時間20分が限界→午前中は座っていられる。

 外に出る時間0分→10分→15分→30分→40分とのびてきた。(外を歩けるようになってきた)

 目眩なし、頭痛はたまに、だるさはまあまあある、、、

目眩がしないってすばらしい!

 BP(ブラッドパッチ)って色々言われるけれど、私には効果があったわけです。

 症状が減るだけでぜんぜん精神状態がちがいます。病は気からって言いますけれど、その逆もあるんだなと思います。

 それで、今は、何をやっているかというと、働けるほど回復するまで、体を鍛えなくてはいけませんので、できるだけ歩いたり、起きている時間を伸ばしたり、リハビリみたいなものをしています。

 医者いわく、少しずつ無理することが必要なんだそうです。それは個人によって方法がちがうから、自分で試行錯誤しなさいとのこと。(あ~むずかしいね~でも、そうですかとしか言えなかったよ)

 まあ、手始めに歩くのが簡単に始められるし良いかなと。お金もかからないし。

 少し歩いたら、死にそうになるけど、毎日少しずつ距離が伸びていくのが嬉しい!

 がんばりすぎないように、頑張って、普通の生活を取り戻すぞ!!

 

 

 

前進すべし

批判して生きるのでなく

 自分は空っぽだと思い、こんなものを書きました。

 でも黙ってるなんてつまんない!と思い、ネットで探した公募にいくつか提出し始めました。これから、続くかどうか分からないけれど。採用されたら万々歳!

 採用されなくても、仕方ない。また次に出せば良い。

 公募を探してて思ったけど、「表現者」ってやつは、本当は自分の言いたいこと言えてんのかなってこと。

 求められるのは、誰かの求めてるものでしかなく。それは、企業の広告であることが多い。

 自分の言いたいこと書いて、歌って、描いて、踊って、、、そんな人はほんの、ほんの一握りだ。知ってるつもりだったけど、改めて。

 簡単に言えば、バランスってことなんだろうな。言いたいことと、求められてることと。でも、その言い方は好きじゃない。そして、私は、まだ何もない。

 少し、前進すれば良い。

 ブログだけでぐずぐずしていないで。

 Twitterで文句言ってないで。

 言いたいことがあれば、出せば良い。

病人同士の付き合い

同じ病名でも分かりあえないこともあると思う

 同じ病気だと特有の苦しみが理解でき、親近感がわくし、分かりあえることがある。

 でも、逆に、親しくなりすぎることを敢えて私は避けている。

 本当の友達は、病気についてよく知らなくても、つらいと言って嫌な顔しない相手だし、心配して会いに来てくれる人だ。

 同じ病気だから友達になる?

 対話することは積極的にしていこうと思う。

 情報交換も積極的に行いたい。

 しかし、それは友達ではない。まして、恋人ではない。

 他人だからこそ話せることってあるじゃないか。同じ病気がきっかけで友達になったら、もし私だけ病気が治ったら何て言ったら良いのだろうか?

 それに、細かく言えば、症状がちがう人の苦しみは、本質的に理解してあげることができない。理解したくても、だ。

 友達ではなく、一時の仲間のような気持ちで。同じものに立ち向かう者として、接していきたい。

批判ばかりしている空っぽな人々

批判ばかりしている人々とは

 これは自分について思ったことだ。

 気づいてしまった。

 Twitterやらブログやらで、何か書いていることや、深く分析したいものは、常に誰かが作ったものだ。自分が生み出したものではない。誰かが作ったものに、良いとか、悪いとか言って、ネット上を無駄に使っている。

 そして、主にそれは悪いと思ったことが始まりになって書いている。こいつはつまらない、面白くない、すべってる。そういう感情でネットを開いてしまう。

 だいたい、私には嫌いなものが多すぎる。そして、そういう嫌いなものを面白おかしく話してくれる人が好きだ。悪口を笑いに昇華してくれる人々が好きだ。

 でも、私が思ったことや、呟いてしまうことはただの悪口だ。私は分析することは好きだが、何かを生み出すことはできていない。

 能力がなくったって、悪口は誰にでも言える。隣に行って、いや、隠れて「つまらない」と一言言えば、それで良いからだ。

 私はそういうことをしている。

 能力もないくせに噛みついている人たちと同じだ。ネットっていうのは、そういう場だから、誰が何を書くかは自由だ。

 でも、そんなの低俗すぎる。大きなメディアに出られない人も、自分の表現ができるように開かれた世界なのに、自ら悪口を垂れ流す場所にしなくても良いではないか。

 トイレのイタズラ書きを「表現」と呼ぶならそれで構わないが。

 何か垂れ流すならもっと、ましなものを垂れ流したい。でも、他人を批判して、自分に戻ると、自分には何もないような気がする。

 気づかなきゃ良かった。「つまらない」と思った人の文や、動画さえ、自分ではできないことをしていることに。

 顔を出して、甘んじて批判を受け入れている人々は、自分とはちがう。自分には何もない。個人を特定できるようにして、覚悟を持って、発信したいことなんて。そういう人は黙ってることが一番良いのだろうか?

 でも、黙ってるなんてできないのだ。だから、もう少しましなものを、もう少しましなものを。そう思って書いていこう。

あきらめたらどうか。

ターボエンジン×努力

 人間はもともと平等ではないと思う。こういうと、反発されそうだ。だけど、かわいい、または美人が何かするのと、そうでない人が何かするのでは差がある。

 授業中、体が細くて、目が大きくて、髪の毛サラサラ、笑顔がかわいい女の子が先生に指されて「わかりません。」というのと、体型普通、顔中の下、無口の女の子が「わかりません。」と言うのでは、周囲の感じ方はたぶんちがう。

 かわいい女の子の場合、その、「わかりません。」がより愛らしく感じる。よし、よし、教えてあげようとか、あの子と一緒にテスト勉強したいなと思ったりする。

 でも、そうでない子だと、「うわあ、自分に順番くるじゃん、何で答えないんだよ。」と次の人が思うくらいで、後は何も思わない。いや、意地の悪いやつが、「無口なのに、勉強できないんだな。一人で何やってんのかな。」と思うかもしれない。

 かわいいって何だろう。

 でも、そんなことより、努力して勝てる何かを身につけた方がずっと良い。話の通じない同級生とは早く離れて、楽しく生活したい。そんなことをずっと考えてながら中学生をやっていた。

 もともと頭は悪くなかった。でも、クラスで一番になるほどではなかった。一番になる人は効率的に生きているか、他人を見下すような性格が悪い人かどちらかだと思っていた。不器用な自分は、その人たちに勝てっこない。それは、すぐに諦めがついた。

 それでも、絶対負けちゃいけないラインというものが存在していた。でも、それが、特定の誰かというわけでもなかった。何かに必死に負けないようにがむしゃらだった。

 私は、その時に形成されてしまった性格が治らない。

 人間は平等ではない。もともと高い能力を持っている人がいる。それは、理解力や身体能力、記憶力、容姿でも、何でも良いのだけど、とにかく高い能力をもっている人たちがいる。

 そういう人たちはジェット機と同じエンジンを積んでいる。自分のやりたいことをその世界で発揮している。努力もしているが、それはジェット機を操縦するために必要なことだからだ。誰よりも遠くにいける。

 私はこの人たちを、ただただすごいと思う。全く違う土俵にいる人たちだ。たぶん、彼らから受ける恩恵で生きている。

 その次の人たちは、並々ならぬ努力して、地上を走っている。レースカーや高級車のエンジンを積んでいる。ここには、自分のエンジンがどれほどの能力を持っているか分かっているにも関わらず、後ろの方をゆっくりと走ろうとする人もいる。

 逆に、能力を分かっていても、最大限にアクセルを踏んで、飛ぼうとする人もいる。そして飛べないことに落胆している。

 この中で一番嫌なのは、良いエンジンを積んでいるくせに、アクセルをあまり踏もうとせず、普通車と同じスピードで走ろうとする人だ。

 楽して隣を走っている。その呑気な横顔も腹が立つ。こっちは必死こいて、このスピードで走っているのに。

 私は、その下の普通車で、でも自分が原付よりずっと良いエンジンを積んでいるという自負がある。普通車の中では、トップで走っていたい気持ちがずっとある。でも、エンジンは、どうにも根をあげている。自分の能力を過信しているのだろうか。

 顔を真っ赤にして走り続けることには限界がある。私は飛べないことに気づかない高級車と同じ、いやそれよりもずっとダサいものなのだろうか。もしかしたら、私は普通車でもなく、原付ですらなく、自転車で、必死にペダルをこいで、周りに引かれてるだけではないか。

 そんなことをずっと考えている。

 とにかく、自分は足を動かすことをやめられない。何かに負けないように。それは、自分に負けたくないなんて、かっこいいものではない。もっとどろどろとした、嫌なものだ。