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中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい

脳脊髄液減少症を再発し、闘病中。寝たきりだけど、言いたい!

生きることに許可がいるのか。

かにゃーです。

 くだらない記事を書いているわりに、という話です。とても重い内容ですが、これは私の考えたことで、啓蒙などの他意はありません。

 毎日、毎日家にこもって、何も出来ないと自分の存在意義を疑ってくる。

何も生産性もなく、誰の役にも立たず、果たして、私は生きていて良いのだろうか?生きている意味はあるのだろうか?

 このような気持ちに取りつかれ、死にたくなった。何も出来ない毎日が続くことに、耐えられないと思った。

 もちろん、自分でも考えた。

 死んだら家族が悲しむよ、友達が悲しむよ、今まで少しでも関わってきた人は驚くよ、生きてたら何か良いことあるよ、誰にも会えなくなるよ、死んでも楽になるとも限らないよ、など。

 でも死に取りつかれた私にはそんなことはどうでも良いとすら思えた。

 だって、自分が死んだ後のことなんて知らないし。誰が悲しんでも私には分からないだろうし。だいたい、生きてる人は誰も死んだことないんだから、死んで楽になるか、余計苦しむか、分からないじゃない。なら、この状況をまず終わらせたくない?死んだら終わるよね。だいたいなぜ死んだら悲しいの?みんないつか死ぬよね?

 死にたいという思いはあまりにも強い。その時の気持ちは、まるで死神に取りつかれているようだ。今まで普通ではないと思っていた考え方に、いくらでも理由をつけて肯定することができた。

 それから、もっといけないのは、ネット検索だった。死ぬ方法を調べていた。

 楽に死ぬ方法で検索すると、国の自殺対策のホームページが1番上に出た。とりあえず相談窓口を見てみた。しかし、ボランティアの人はどんな人なのか、毎日毎日、死にたい人と話す人がどんな人なのか分からず、電話は掛けられなかった。本当に死ぬ直前に掛けてようと思い、とりあえずページを変えた。そして、ネット上にはたくさんの死に関する情報があることを知った。

 死ぬ前に考えること、やりたいことなどをまとめたページは、本当に自殺を食い止めたいのかちょっと分からなかった。むしろ、そそのかしているようにも思えた。ご親切に死ぬ方法をブログにイラスト付で載せている人までいた。何のために?よく分からなかった。

 ネット上の情報は響かなかった。

 だって、書いた人は誰も死んだことないじゃん。無責任じゃん。楽に死ねる?そんなのやってないんだから分からんよね?って思った。載っている情報のなかで、楽に死ねる方法なんてないと思った。

 家にある洗剤なんか飲んでも大量に飲まないと死なないらしい。大量に飲む前に絶対吐いてお仕舞いだろうと想像した。そんなのは無意味だ。

 そもそも、生きてる意味が分からないので死にたくなったのだが、死ぬ意味はあるのか?と疑問に思った。それは、ただこの生活が終わるという意味だった。

ただ終わらせたいだけだ。

 こんな自分は、生きてて良いのか?と思ったところから死にたくなったのだが、「生きてて良いのか?」って、生きることを誰かや、何かに許可をもらってやることみたいじゃない?と思った。

 生きることに許可って必要なの?

 いや、いらんよな。

 じゃあ、なぜ、生きてて良いのか?なんて考えるんだろう。これは、よく分からないが、自分の存在否定をしたいんだと思った。

 そこで、自分について考えてみた。ふと、本棚を見た。たくさんの本や、ノートや、大学時代の研究の資料があった。

 そうだ、自分は今まできちんと誠実に生きてきた。何かを積み重ねて、でも、まだ何も成していない。読んでいない本やまだ考えの途中のものがたくさんある。今死んだら、何も残らない。

 それから、アルバムが目に入った。アルバムには小学生のころから最近のものまでの写真を保存していた。

 中学校が嫌いだった。だから、つらいことだらけだったと思い込んでいた。でも、あんなに嫌いなことばかりの中学校の時の写真を見ても、楽しそうに笑っていた。仲の良い友達もいた。今は連絡をとっていない友達。毎日あんなに一緒にいたのに。もったいないと思った。

 勝手にネガティブに記憶が編集されてると思った。それに、楽しかった高校、大学時代は逆に、つらいと思っていたことがあったと思い出した。

 それならば、死にたいとまで思っている今、本当に全てがつらいのか?本当に死んで良いのか?

 会わなくなった友達を、もったいないと思っていながら、何の連絡もせず、全て終わりにするのか?勝手に自己完結させるのか?

 いや。全員に片っ端から連絡してからでも、遅くはない。そう思った。

 今まで、人につらいと言うことが恥ずかしいという変なプライドがあった。

 

 でも、どうせ死ぬつもりなら、恥ずかしいとかどうでも良くない?

 連絡して、誰も返事がなかったら?と怖くもあったが、そしたら、その時また考えようと思った。 

 今まで、連絡していない人にも、今の状況と、つらいということを送った。すると、たくさんの人が返事をくれた。話を聞いてくれたり、会いに行こうか?と言ってくれた。

 何年か振りに連絡した友達も、引いたり、馬鹿にしたりしなかった。

 連絡して「お大事に」と返事をくれてから連絡が途絶えた人もいたが、それは仕方ないことだった。今の自分を相手にしてくれる人は良い人だ。普通の人はちらと見て、去っていくだろう。

 足を止めたら自分に責任が出てくる可能性を考えると、去っていく気持ちも分かる。忙しい生活に、病人と関わるのはリスクがあるのだ。たとえ、以前親しかったとしても。

 本当に、持つべきものは、友だった。今まで、真面目に友達付き合いをしてきた自分に誇らしい気持ちさえ湧いた。こんなに良い友達がたくさんいることに感謝した。

 返事をする中で、私は自分が死ぬことについてもう一度考えさせられた。

 きっとこの人達は、自分の突然の連絡に驚いたのだろうと。そして、もし、私が本当に死んでいたら、この人達はどれほど驚くだろうか。そんな馬鹿なことはしてはいけない。やっと、そう気付いた。やっと、取り付いていた死神が消えていった。

 死ぬのは全て手を尽くした後でも遅くはない。そして、複数人に話をすれば、想像以上に救われる。忙しいじゃないか?迷惑じゃないか?引かれるんじゃないか?

 確かに病人に関わるのは面倒だと考える人もいる。それはその人が悪いのではない。仕方ないことだ。その人が面倒だと思っても、他の誰かは心配してくれる。 

 とにかくたくさんの人に助けを求めることだ。そうすれば、自分の重くて暗い気持ちも分散される。つらいと言う前には、色々考えて怖くなるが、そんな想像は自分の想像でしかない。今回気づかされたのは、自分の想像できる範囲など、とても狭いということだ。

 友達でなくても、家族でも、相談窓口でもネット上の繋がりでも、良いんだと思う。返事をくれる誰かに、つらいと言ってみる。無下に扱われたら、それは次の人に話せということだ。

 私一人いなくなっても、この世界はたぶん、変わらない。だって、今生きていて、世界に影響なんて与えていないから。でも、世界に影響を与えている人なんてどれだけいるのか?そもそも影響を与えていなければ、生きていてはいけないと誰が決めたのか。苦しむ自分に、そう言ってきた人がいたとして、それは客観性や、きちんとした根拠はあるのか?

 病人でも、寝たきりでも、ただ、とりあえず、生きていようという気持ちで今生きている。でも、それで良いんだと思う。