中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい

脳脊髄液減少症を再発し、闘病中。「中学の同級生に見られたら穴を掘ってブラジルに行きたい」というのは、最初は精神的なことを書いていたので中学校の同級生に見られたら恥ずかしい内容という意味で付けました。

SNSの使い分けは、住み分け。

SNSでもそれに見合った発言をする

Twitterだと人格が変わるやつがムカつく、隣人に見せられない人格をネットで作るな!と、いつかの「僕らの時代」で語っている女の人を見た。そのことについて考えていて、何となく思ったことがあった。

 確かに、ネット上には変に噛み付く人達が、掃いて捨てるほどいて、有名人だけでなく、注目される人は絶賛と炎上のコメントを浴びている。そして心無いコメントを故意にする人もいる。そういう人に対して、その女性タレントは「ムカつく」と言っていたのだと思う。ムカつくのも普通のことだ。

 しかし矛先を自分に向けてみると、どうだろうか。わざわざ有名人や、注目される人に暴言を吐いたりはしないが、友人に堂々と見せられる内容のことを呟いたり、書いたりしていない。

 むしろ、「リアル」な友達に言えないことだからこそ、ネット上で呟いている。

 たとえば、病気になると、健康な人が羨ましくなる。

 でも、そのことは友達にはいえない。なぜなら、そんなことを言ったら、心配してくれている友達を悪い気分にさせてしまうと思うからだ。心配した友人が「あなたが羨ましい。」と言い出したら、怒ったり、ひいたりすると思う。それに、友達には友達の楽しみとつらさがあって、家から出られない(出られなかった)自分には分からない。

 そういう羨ましさや、妬みを含んだ感情を吐き出すためにTwitterを始め、その延長にブログを始めた。同じような人がネット上にはたくさんいるのではないか。というか、リアルな世界では誰も理解してくれなくても、ネット上に居場所がある人はたくさんいると思う。インターネットが普及してから何年経ってると思ってんだ!と言われそうだが、そういう人は、隣人に見せられない人格をネット上で形成しているわけだ。誤解されそうなので、書いておくと、法に触れることや、人を傷つけることを肯定したいのではない。ただ、知っている人のブログやTwitterを見て、知っているものとちがっても、批難できないなということを思ったのだ。

 欝日記や、欝ツイートと呼ばれるもの、そういうものは面倒くさい。でも、面倒くさいのは、自分の現実の生活に入り込んでくるからだ。そのものにあった場所、そういうことを呟いてもいい場所では批難されなくてもいいのではないか。裏アカを作る人にはそれなりに抱えているものがあるような気がする。

 誰にも見せられないなら、紙媒体の日記に書けよと思うこともある。でも、ネット上に書くのは、やはり、顔の知らない人で、同じような境遇の人に見てもらいたい気持ちがどこかにあるように思う。

 それで、Twitter上ではそういう暗い内容は合うように思うけれど、インスタやフェイスブック合わないのは、顔が出ているからではないかと思う。そこでは、HAPPY!な内容を投稿することが適切になる。有名人を筆頭に、真上から撮った食べ物の写真、海外の写真、加工した景色、イケメンの彼氏、など。ドラマに出てくるようなものを投稿するのが「合っている」場所になる。フェイスブックでは、結婚、出産など近況を明るく発表するのが「合っている」ということになる。それぞれに使い分けがされていくわけだ。

 フェイスブックで他人が羨ましい、妬ましいと思った時期もあったが、そのことに気付いてしまえばなんとも思わなくなった。選んで投稿しているだけだ。そりゃ自慢したい気持ちもあるだろうが、そのHAPPY!の事象があったから、投稿しているのだ。いつもいつもそのことが起こるわけではない。みんな普通だ。そう思うと、とても楽になった。